小さな不自由と大きな自由

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非常時には特にそうですが、平時においても教授しなければならない多くの「小さな不自由」があります。

信号を無視して車を爆走させてはいけませんし、人の個人情報をむやみに広めてはいけません。

その方が、最終的には、周りから私権を脅かされない安心できる社会にできるからです。

世の中、「空間の大きさ」や「お金の量」「時間」などは限られていますので、個人の権利が大きく肥大化していってしまったら、他の人の権利が存在できる余地が無くなってしまいます。

多くの人は言われるまでも無く、これを理解しているとも思います。

法律などによる「私権の制限」を単なる障害とみなして、スキマを潜り抜けられれば何をやってもよいとするのではなく、当然守らねばならない「倫理」のようにみなして遵守しようとします。

場合によっては、法律の「趣旨」を拡大解釈して「自主規制」したりします。

このような世論の理解があるからこそ、世界で最も安全な国となっているのでしょう。

※犯罪が増えているという当局やマスコミの発表とは異なり、日本は依然として犯罪の少ない安全な国であり、かつ犯罪発生率は減少中。

同時に従順すぎる世論は大きな弱点ともなるのかもしれません。

必要な範囲を超えた過度に統制的な法律等は、国民の拡大解釈によってさらに程度をまし、より息苦しい社会になってしまう可能性があります。

かつて(1930年代)にそのような時代があった気がします。

そういった懸念は常に必要だと思いますが、今回の件では心配ないとは思います。

あまりに当たり前の範囲の話です。

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