ミスとウソは天地の差

 
公人と言えども、単なる失敗やミスは必ず許されなくてはなりません。
同時に公的なウソは許されてはなりません。そのように思います。
 
舛添都知事の問題だけでなく、最近は芸能人のスキャンダルなども多いですね。
何か批判できるネタがあると、マスコミやインターネット空間など総動員の上で徹底的に叩かれます。
時には、事案に怒りを感じているから叩くのではなく、順番が逆になっているのではないかと感じることも。
つまり、最初から内容は何でもいいから誰か批判できる相手はいないかと探している。特に政治家や公務員のように絶対反撃してくることのない相手だとサイコー!みたいな風潮すら感じます。
 
相手を批判することで、相手を「下げ」または「悪」に落とすことで、相対的に自分を「上げ」「正義」に位置付けることができる。
そんな矮小な満足感を得ることは可能ですが、幻想に過ぎません。
また、批判する側全員が経費の使い方や身持ちの堅さなど、一切ミスのない聖人君主であるはずもありません。
そんな中で、批判できる相手・攻撃する対象を常に探す世の中になったとしたら、いつかその攻撃はわが身にも帰ってきますし、非常にギスギスした息苦しい社会になってしまうように思います。
そのような意味で、厚切りジェイソン氏の「日本は人間を失敗させない社会。セカンドチャンスがない」という指摘は非常に共感できるのですが、舛添都知事の事例に関しては全く当てはまらないと考えます。
 
一連の定例会見や都議会委員会での説明を見るに、舛添氏が「ウソ」をついているのは明白です。単純なミスをしたわけではありません。
色々ありましたが、中でもシルクのチャイナ服に関する記者とのやりとり、
「柔道をしているので肩の筋肉がすごい。背広ではひっかかるが、シルクの中国服は生地がツルッとしていて書きやすい」
「袖の無い服を着れば?」
「気温が低い時は?」
なんてのは、詭弁もいいところ、ほとんどコントのようにも感じました。
 
・自分は優秀な貴人なので、政治資金を私的に使う「資格」がある。
・自分は頭が良いので理屈では負けない。
・相手が事実関係を証明できなければ、いくらウソをついても構わない。
要するに背後にこういった「悪意」があるのが見え見えで、私も含めて多くの方に嫌悪感と不信感を与えるのに十分でした。
そのような悪意は条例やルールの文言や解釈、税金の使い道などを左右できる公人の資質としては、全くふさわしくないものです。
公人が公的な場でついた「ウソ」を世論が総がかりで袋叩きにし、政権与党内の参院選が終わるまでは~といった力学をも一蹴して、辞任に追い込んだのは良かったと思います。
また、わが国が民主主義国家である証でもあります。
できれば、100条委員会などを通じて、木更津のホテルの件に関する「違法性」などを明らかにしてほしいとは願いますが・・・。
 
 
 
 

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