相対的自尊心

いささか生臭い話にもなりますが、スエムラは〇〇から金貰って飼い犬になっているだの、フリンしてるだの、根も葉もないことを言われることがあります。
見かけ上は公憤のような形をとって、けしからん!我が怒りは世の為人の為だ!それに引き換え、スエムラは私欲にまみれた世間の敵だ!という形で怒りを表明されます。
それならば指摘が事実かどうか、私に直接確かめてもよさそうなものだと良く思いますが、確かめられた例はありません。あくまで間接的な陰口に留まります。
 
独断と偏見ですが、これには「確かめないこと」がその方の利益になる部分があるからだと考えています。
つまり、もし直接コミュニケーションをしてみて、飼い犬説、フリン説といった仮説が誤解だと分かると、私の事を批判して蔑むことができなくなるという「不利益」があります。
批判したり、蔑んだりすることで、相手を下げ、相対的に自分を聖なる存在へと高めることができるとしたら、それはとても貴重な心地よい状態です。
ただし不毛だなとも感じます。
結局、公憤のような形をとった怒りは、それほどその人にとって大切なわけではなく、政治関係者を批判できる権利を留保しておくことの方が、ずっと優先順位は高いわけです。
 
ここまで考えてみて、私自身こういうことはあるよなと実感します。
特に国政関係のニュースなんかを見て、〇〇衆議院議員は何を考えているんだと怒りを覚えることはあるわけですが、ならば直接その議員に真意を確かめてみればよいわけです。
恐らくとてもお忙しいでしょうし、1回のアプローチでお話しができるとは思えませんが、先方としても国民の真摯な意見ですし、本気で何としても意見交換がしたいと思えば、多分実現できるのだろうと思います。
ここで、職業差別的な身分制度意識を持ちだして、「国民さま」がそこまでする必要はない。国会議員の側から意見を求めに来るべきだと、行動しない自分を自己弁護をすることは簡単です。
でも、果たしてそれで私たちの民主主義が成り立つのか。いささか反省する想いを感じました。結局どこまで本気か、そういうことなのだと思います。

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