善悪二元論と選挙戦に関して

祝・令和元年。
天皇陛下の御即位をお祝い申し上げます。
先月まで多くの選挙がありました。夫婦そろって色々な自治体で選挙に関わらせて頂きましたが、少し感じたことを一つ。
「政治を市民の手に取り戻す!」といったスローガンが典型ですが、光と闇の戦いといいますか、ある種の階級闘争の舞台のように選挙が捉えられるシーンがあるように感じ、ここは本当に自省も含めて少し疑問を抱きました。
 
たいていそのような叩くシーンの場合、右翼と左翼、保守と革新、レッドチームとブルーチームというように2種類に分類される場合が多いのではないでしょうか。
人間の性格を4種類の血液型で分類するのは無茶だとはよく言われますが、複雑怪奇な政治イデオロギーを、たった2種類に分類するのはもっと無茶ではないかとも思えます。
とはいえ、わかりやすさ、利便性という側面もあるのかもしれません。
私も特に最初の選挙の時にやったことがありますので、敵を認定し「叩く高揚感」のようなものは何となくわかります。
多分、私たち人間には群れを作って他の群れと戦う本能が刻み込まれており、「奴らを打ち倒せ」というスローガンは本能に響くという意味でも、選挙戦術的に極めて有効な面があるのではないかと感じます。
 
繰り返し自省も含みますが、興味深いのは、悪認定した「奴ら」を叩くときに「民主主義」や「市民」が旗印として使われることです。
しかし、ここには単純で深刻な矛盾が生じます。
「民主主義」を旗印に叩いているわけですが、叩いている対象もまた市民であり、その意見もまた尊重しなくてはならない民意であるはずだからです。
まさか、民主主義とは他の意見を圧迫し、私一人の意見が尊重されることである、と言える人はまずいないでしょう。
 
二元論で「政治を市民の手に取り戻す!」として選挙運動を行い、仮に運動が功を奏して首長選挙に勝つなり、議会の多数を取るなりしたとします。その後はどうするのか。
一つの可能性として、権力者=悪になったのだから、今度は無条件に叩かれる側に回るのか。
潔い態度ではありますが、改革や革命を唱えながらも、結局は上と下のメンバーが入れ替わっただけの話で、その後も同じパターンの繰り返しになります。
もう一つ、理由があるから叩いていたわけでは必ずしもなく、悪を叩いているが故に善を自称できていたという側面に気づき、権力を握った後も、自分が善であるために、市民の中から悪や旧弊、市民の敵等を新たに作り出し、叩き始めるという可能性です。
今度は権力に握っている側による弾圧ですので、より悲惨なことになる可能性がありますが、ロシアや中国、カンボジア等で過去にこのような事があったように思えます。
いずれにせよ、気の滅入る未来ばかりに思えます。
 
家がお金持ちであったり、親が政治家であるから優先的にその人の意見が尊重されるべきとはもちろん思いません。が、同様に家が貧しく、親が政治家でない人の意見ばかりが逆に特権階級になるべきとも思えません。
要は生まれや属性に関わらず、その人が何を言っているか、何をしているのか、その言動の中身や合理性が平等に問われるべきではないかと考えます。
ただ、選挙選は本当にみんな必死ですし、何より、有権者の方は忙しいですので、説明できる時間は非常に短く、選挙戦術的に、わかりやすさという側面も非常に大事です。
ままならないといいますか、難しいといいますか、候補者の方々も色々な苦悩があったのではないかと思います。
 
 

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