取手市議会に視察に伺いました。議員政治倫理条例に関して。

今日はお隣取手市議会にお伺いし、政治倫理条例に関して勉強させて頂きました。
取手市議会では、市長だけでなく、議員にも資産公開を義務付ける内容の倫理条例が制定されていましたが、昨年の12月定例会で議員の資産公開義務が廃止されたそうです。
議員にも資産公開義務が課される自治体は少ないと思いますが、一度決めた公開義務を廃止した事例となるとさらにレアと感じます。

条例改正への経緯もお伺いしました。改正へ至ったエピソードの一つとして、以下は私なりの言葉での解釈ですが、
●明確な根拠がなく、単なる推測で一方的に疑惑を指摘され、にも関わらず本人へのヒアリング等もなく、反論や弁明の機会も与えられなかった。
●結局は、資産公開がされることで、かえってやましい事があるのではと疑われ、根拠のない不信を広めるきっかけのようになった可能性がある。
といった意見もあったようでした。
 
根本として、「倫理」の基準に統一性は無い。各人の内面において自由であるという点はよく認識されるべきと感じます。
例えば、議員またはその親族による契約辞退の範囲を、1親等までにするのが倫理的か、はたまた2親等までにすべきかというのは、最終的には各個人の倫理観、感覚で線引きをするしかありません。
 
同時に、倫理基準の押し付け合い、言うなれば、他人はすべからく私の感じる倫理基準に従うべきであるとなってしまったら、いずれその「刃」は今その糾弾をしている人にも帰ってくるのでしょうし、そのような社会は不幸であろうとも感じます。
人を糾弾して「下」にすることで、相対的に自分の価値を「上」と感じようとするのは人間心理としてよくある手口と思いますが、「倫理」という曖昧な基準で糾弾合戦に陥ると正直キリがありません。
そのような不幸の道具に倫理条例が使われる可能性があるとしたら、それは立法者としては不本意なことと思います。
いずれにせよ、問題を生じさせるのは条例そのものではなく、それを使う、解釈する人間なのだと強く感じました。
 
一つ頂いたアイデアとして興味深いなと思ったのが、倫理条例の細かい義務内容をすべて義務ではなく、任意にしてしまってはどうかというものがありました。
確かに、あえて任意とすることで、議員本人が資産報告をするのかなど具体的に何をするか。それを周辺の有権者がどう受け止めるかなど、基準がない倫理を論ずるためには、その方がふさわしいかもしれません。
義務とした方が一見倫理的にも思えますが、逆に義務規定を果たしていればそれでいいと、ある種の思考停止に陥ってしまう可能性はあるかもしれません。
 
守谷市議会の任期もあと1年程度ですので、少なくとも改選のタイミングには間に合うよう、守谷市議会でも倫理条例の改正が検討されています。今日の勉強内容も踏まえて議論を深めてまいります。

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