批判は「快感」だったりします。

私は結構「野党タイプ」といいますか、執行部をカウンター的に批判するのを好むタイプの議員であると自覚しています。
ただ、色々なことを思い起こして感じるのが、行政は断じて「敵」ではありませんし、行政職員の感覚や問題意識が、多くの市民とかけ離れているなんてこともありません。
 
例えば、犬猫の殺処分頭数が多い茨城県、何とかしたいと市民が思っていたら、私の体験上、行政職員も実はずっとそう思っています。
もちろん、行政は少なくても数百人単位のチームで動いていますので、個人の感覚で、〇〇をやります、やりませんと即断することができない場合は多くあります。
そして、そんな行政の縦割りの弊害、動きの鈍さに憤りを感じる市民が多いのもまた当然だと感じます。私も同様の憤りを感じる機会は数多くありました。
 
ただそこで、思い通りに動かない行政を批判することにすごく夢中になってしまう市民活動や議員活動が一定数あるようにも感じます。
行政職員は大抵批判に対して反論しませんので、一方的に批判がしやすいという面も拍車をかけるのかもしれません。
ひたすら批判をして、行政は「悪」だから共に語らないと断罪してしまうと、まず行政は悪であるという点が事実と異なると思いますが、同時に行政サイドからの問題解決の可能性をシャットアウトしてしまうという点で、ものすごくもったいないと感じます。
 
民間が主役の日本ですが、中には行政サイドからでないと解決できない問題も多々あります。
問題解決自体を目的とするなら、行政との連携は不可欠な場合も多いですし、また行政としても内心は共に解決したいと思っているわけですから、協力しない理由は本来はありません。
ただ、批判自体が目的化してしまい、批判そのものが活動内容となってしまうと、そうはいかなくなるのではと感じる場合もありました。
 
私も仕事柄、執行部を批判する機会は多いので良く感じるのですが、人を批判することで相対的に自分を善のように感じることができるのは、実はとても快感です。
そして、批判により快感を得ること、それ自体が目的になってはおしまいだとよく考えるようにしています。
 
特に守谷市における動物愛護政策に関しては、協議会の設立等に当初から関わってきました。
そして当初から、自分たちの意見に賛同しない市民や行政を攻めること、人を攻撃することを活動の主体とするなら、そういったものには協力しない。動物愛護活動が多くの市民に良く思われる事こそ、動物愛護活動の第一歩である。
それらを原則として活動してきましたが、今でもその方が政策実現できる範囲は結果的に大きくできたと思っておりますし、正解だったのではと考えております。
 
 
 
 
 

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