目的は手段を合理化しません。
「愛国」でも「無罪」にはなりません。
人を殺せば殺人罪です。これが被害者の人格を根拠に無罪とされることはあり得ません。
問題の性質と暴力の行使はまったく次元の異なる話であり、許されることではありません。
「紛争解決の手段として武力を用いない」これは1928年のパリ不戦条約に始まり、わが国の憲法にも
書かれている内容ですが、2つの世界大戦、その犠牲を経て獲得された人類の英知であります。
しかし、例えば台湾などに対する中国の態度、独立宣言には戦争で答えると真顔で宣言する態度を見る限り、そのような英知を守る意思は毛頭無いようです。
内政的にも同じで、「愛国」などの正義を訴えれば暴力は容認される、いやむしろ暴力で訴えた方が
より「愛国的」なのだという風潮が、21世紀の今でも蔓延しているようです。
そのような風潮は、暴力の連鎖を招きます。
暴力で愛国を実行した人物に「対して」、別の誰かが別の「愛国」を根拠に暴力を振るって、一方的な
正義を強制しても咎められません。
かの国の人々がかつてもそして現在も行っていることだからです。
かの国の歴史は常にその繰り返しだったように思います。
中国国内での暴力や人間不信の連鎖、これはかの国々の人々が自らの行いによって作り上げたものであり、どこか他国のせいではありません。
同様に自らの手で、信頼を基調とする安心できる国づくりもできるはずで、よその国の人間ができること
ではありません。
近い将来に我々から見ても信頼でき、尊敬できる隣人となるよう願っております。
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