民主制を辞書で引くと、「民衆の意思に従って政治が行われる政治体制」という定義が出てきます。
個人的に、尊重される「民衆」というのは当然に「すべての国民」のことと思い込んでいましたが、違うパターンの民主制があることをお隣、韓国のあり方から学びました。
広く知られていますが、韓国では大統領経験者が退任後に安寧に暮らせたためしがありません。
任期が終わり権力を失った途端にデモ等を通じて「悪魔化」され、場合によっては遡及的な処罰を受け、投獄されたりします。
どの大統領も民衆によって選ばれた民衆の一員のはずですが、数年後には民衆によって悪魔化され追い落とされる。
韓国ではこれを誇ると同時に、このような事をしないわが国のあり方をあざ笑うような言論もあるようなのですが、個人的に反発する前に???と理解不能な印象がありました。
韓国では、民主制=革命的なるもの、というイメージがあるのかもしれません。
二元的な光と闇の戦いといいますか、国民の中には善玉と悪玉が必ず居て、善なる国民が悪を追求し、処罰し滅ぼすのが「民主制」なのだと認識している気がしました。
派手に叩いて滅ぼすほどより「民主的」になる。そして、同じ国民の中から悪玉を作り出されるのがポイントかなと思えます。
少し離れますが、そのような文脈で考えると、北朝鮮があのような抑圧的な体制ながら、国名に「民主主義」を冠しているある種のブラックジョークも理解できる気がします。
ちなみに理解できても、個人的に共感はしません。
悪玉を作りヤツラを滅ぼせと叫ぶのは、何よりわかりやすいです。また、悪を叩いているが故に自分が善になった気分も得られるのだろうと思います
しかし、その気分には中身がありません。
また、悪玉とされた人々もまた民衆であり、その言動も民主制の元で尊重されるべき存在のはずです。
自分の足を食べて飢えをしのいでも、一時的な食欲を満たせるだけで最後は死に至ります。
同様に、民衆の意思の一部と「言論」をするのではなく、ただ悪魔化して滅ぼそうとするのは、最終的にその国の民主制自体を死に至らしめる行為なのではないかと考えます。
老若男女、どんな職業だろうが、お金があろうがなかろうが、何党の支持者だろうが関係ありません。すべての国民が民主制の元で尊重される民衆です。
ここまでなら、他山の石の話で済みますが、参院選における一連の報道やSNS投稿などを見ていると、わが国の一部でもこのような革命タイプ、悪玉作りが好まれるようです。
ネトウヨ、パヨクといった表現もありますが、何でもかんでも安倍総理のせい、反日外国人、反日マスコミのせいなど、結論はとにかく強く主張するものの、意見の内容をよく聞くと、事実に基づく根拠等が無い例が多くあります。
例え総理大臣であったとしても、一個人の意思が世の中のすべての事をコントロールできるはずがありません。
また、批判を受けて改めるとしても、事実を示すことなく、とにかくアベが悪いと絶叫されるだけでは改めようもありません。
あらゆる政策の選択肢が2択しかないなんてありえませんし、何か1点を変えればすべてがよくなることもありえません。
自分とは異なる意見であっても、一理はあるのが通常です。
参院選というのは3年に一度しかないチャンスでもあります。
インスタントな光と闇の物語に逃げるのでなく、事実に基づいた建設的な言論がなされる場となればよいと願います。
わが国における民主制や言論のあり方は歴史的にも、革命的なものとは大きく異なると考えています。
明治維新のような激変期にあっても、徳川慶喜公は安寧にその後を暮らすことができました。また、今も昔も特に誰もそれを疑問に思っているように見えません。
この先人の知恵は、令和の今日においても多くの日本人の生命財産を救っていると信じます。
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