集団的自衛権の行使容認は、都合の良い憲法の拡大解釈だ!ケシカラン!という主張は、実は全くその通りだと思っております。
加えて「都合の良い憲法の拡大解釈」は、別に今に始まった話ではなく、何十年も前からあったのではないかとも思っております。
問題の憲法9条ですが、引っかかるのは2項です。↓
なんせ「交戦権を認めない」とはっきり書いちゃってるんですから、細かい大人の事情を無視して素直に読めば、集団的ではなく個別的自衛権すらアウトとなるんじゃないでしょうか。
つまりは、敵性国家から侵略を受けたら黙って支配される、ないしは殺されるべき、それが平和主義というものです。というのが素直に読んだ所の憲法の命ずるところなのだと思います。
もっともそれ以前に「戦力を保持しない」のですから、自衛権うんぬんを論じるまでも無い気もします。丸腰だったら自衛権を行使したくてもできません。
ちなみに、無抵抗で侵略者の支配下に入ったのちは、わが国の不動産や(特A級の)工業力、人的資源などを新たな別の侵略行為に利用されるのがオチですので、そのような意味で、無抵抗の降伏は全然「平和主義」ではありません。
つまりは、1項の「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求」と矛盾します。
同じ9条内部で矛盾があるんですから、なんて出来の悪い条文なんだと正直愕然とします。
勝手な想像なんですが、
「アメリカ以外の国の軍備を全廃して、全世界をアメリカが守れば平和になる!」とか、「悪いのは常に金持ちなので(当然アメリカを除く)、金持ち先進国が軍備放棄すれば必然的に平和になる!」とか、
今にしてみれば、妄想としか思えないようなストーリーが、条文作成当時に前提条件としてあったのではないでしょうか。
そして、朝鮮戦争などに直面して現実に目覚め、自衛隊の前身たる警察予備隊の設立へ。
「警察」だからいいんだ!バズーカ持ってるけど・・・。となったわけですが、
この歴史はある種のごまかし、詐術です。
「戦力を保持しない」が間違いだと気づいたのなら、その時に憲法条文を改正すべきだったのです。
選挙で票にならない、諸外国に説明するのがしんどい、とりあえず生活に影響ないからいいやなどの理由でしょうか、我々は放置し続けてきました。
今回の参院選、18歳からの投票が始まり、多くの大人が若者に投票に行くことの大切さを説いています。
しかし、その前に憲法の条文という、公式中の公式の空間で、実質的なウソをつき続けているという現状を放置し続けてきた、この現状に我々大人がもっと真剣に向き合わなくては、いささかかっこ悪いのではと感じます。
憲法9条は改正すべきです。
しかし、9条1項はけして削除してはなりません。同時に2項は必ず削除しなくてはなりません。そのように考えています。
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