何を持って無駄と判断するか

http://sankei.jp.msn.com/politics/news/111116/pl

衆院決算行政監視委員会の行政監視小委員会(新藤義孝小委員長)は16日、行政の無駄を省く「国会版事業仕分け」を始めた。スーパーコンピューター「京」などの革新的コンピューティング・インフラ構築について、運営経費が抑えられていないとして「縮減」と判定した。

 「仕分け人」は民主、自民、公明3党の同委の委員が務め、政府の行政刷新会議による事業仕分けで仕分け人を務めた経験のある民間有識者らが参考人として質疑に参加した。

 平成21年秋の事業仕分けで「限りなく予算計上見送りに近い縮減」と判定されたスパコンには「仕分けにより開発経費は抑えられたが、毎年の運営経費が1・5倍になった。なぜか」(民主の岡田康裕衆院議員)などの厳しい指摘が相次いだ。

 続いて医療費請求書の審査事務も審議。17日は国家公務員宿舎朝霞住宅(埼玉県朝霞市)をはじめとした公務員宿舎の建設・維持経費と、原子力関連予算の独立行政法人などへの支出も取り上げる。

個人的に始業仕分けの趣旨=オープンに議論すべし自体には賛成です。

「無駄」なお金の使い方があったらチェックされねばならない、これは当然です。

例えば、公務員宿舎にシャンデリアをつけるとか、カラオケ設備を充実させるとか、翌年の予算確保の為に余ったお金を無意味な工事(穴を掘ってまた埋めるような)に使うとか、これらを「無駄」と表現するのにためらいを感じる人は少ないでしょう。

ここまでくるともはや「倫理」や「道徳」の世界の話です。

仮に、デフレ不況下なので、政府支出を増やして景気刺激をすべしという作戦下だったとしても、支出増額は別の「まともな」分野で行い、上記のようなものは遠慮なく削減すべきです。

一方でスパコンのような例でありえますが、短期的に利益が出にくいことを理由に「無駄」と判断されてしまう場合があります。

このような例は危険です。

インターネットの原型は1969年だそうですが、その頃は関連市場のようなものは影も形もありません。

したがって経済効率を優先した場合、インターネット(の原型)への投資は少なくとも短期的には無駄と判断することはできそうです。しかし、現在インターネットなしでの生活は想像もできません。

不況、資金難などの理由があったとしても、将来への投資をためらってしまうのは、将来数倍ものリスクを背負う可能性を生んでしまいかねないのではないでしょうか。

最も現政権での場合、例えば子供手当ての財源確保のような、仕分けの趣旨からは離れたまったく別の理由により、最初からいくらいくら削減と結論を決めてから議論をしているようにも思えます。

オープンな議論の結果、これだけ「無駄」があり、結果としていくら削減された

無駄がいくつも出たが、もっと重要な投資が多数承認されたので、結果として予算全体は増額となった

などのように議論→削減(増額)決定 となるのが普通なのに、なぜか最初からいくら削減と結論が決まっているわけです。

このような議論の仕方は本来の趣旨、役所の無駄のチェック、予算の透明性の確保といったものを歪めてしまう可能性があります。

言葉の定義といいますか、今何をしているのか、本質を忘れてはならないのだと感じます。

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