私の場合、仕事のうちのかなりの部分が住んでいる市内で完結するというライフスタイルですが、考えてみるとそのようなスタイルは守谷市においては少数派なのかもしれません。
都内へ通勤している会社員の方などが多い守谷市ですが、そのような方々の仕事の時間、趣味等のプライベートの時間なども含めると、その舞台はけして住んでいる市内だけで完結するものではありません。
必然的にそのような方々の興味の対象、人生における優先順位なども、守谷市の枠内だけに留まるものとはなりません。またそれは断じて「間違っていること」ではありません。
地域を回っていて、「守谷市議会の~」とあいさつしようとしても、冒頭だけで「そういうのいいですから」と一蹴され、遮られることも多々あります。
「そういうの」という過酷な表現は割と傷つきますので、できればソフトな表現に変えて頂けると助かるのですがそれはともかくとして、その方にとって守谷市内の出来事や課題のみが重要ではないのかもしれないと考えると、理解できる話です。
繰り返しますが、そのような感覚はけして間違いではありません。
そして、例えば本会議開催時など、会議場に座っているメンバーを見渡すと、市長をはじめ市役所の幹部クラス、我々議会の人間も含めて、みんな人生における優先順位が「市内のみ」で完結する組(私も含めて市内では少数派)で多く占められているのではないかと感じます。
その点において、市民の構成と行政や議会の構成に乖離があると言え、選挙における投票率の低下や、自治会の加入率の低下の根本原因はここにあるのでしょう。従って、選挙に行きましょう、自治会に入りましょうと力むだけでは解決しないのでは感じます。
仕事や生活空間が市内だけで完結する、「移動しない組」が相対的に大きな政治的な権力を発揮できてしまうというのは、我々が乗り越えなくてはならない民主主義の課題の一つだと感じますが、処方箋は正直思いつきません。
その上で議会サイドの立場として、当面は死活的に重要になるだろうと思うのが、普段接触のない市民の意見や都合を「想像」することではないでしょうか。
議会や行政と普段あまり繋がりのない層も含めて、市民全体の立場を公平に俯瞰した上での優先順位の判断、公平な税金の使い道とは何かを常に考えていかなければなりません。
なぜなら「移動しない組」だけでなく、すべての市民の租税負担により市は成り立っているからです。それができなくては、議会という機能そのものがいずれ見捨てられてしまうでしょう。
国政においては内紛などにより最近しぼんでしまいましたが、「脱しがらみ」などのスローガンを掲げた、いわゆる第3極と言われる政党などに一時期支持が集まりました。
これは要するに「政治家のみなさん、自分の知っている人たち、支援者の人たちだけの都合を優先することはやめて下さい。税金を払っているのは、政治家のみなさんの近くにいる人だけではないのですよ」という市民の叫びだったのではないかと思います。
これは現在においても否定されたものではなく、けして忘れてはならない政治的なテーマであると私は信じます。
また、国政政界における主導権争いや自分の選挙の都合など、理念を離れたよりセルフィッシュな動機が第3極の崩壊を招いたのだとしたら、国民の政治不信を招いたという意味で罪深いことだと感じます。
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