「誰が」言っているかではなく、その人が「何を」言っているか

年末年始はゆっくり読書なども。思考回路を刺激してくれる文章に出会えると嬉しいものです。

著者の「教育勅語」「儒教」に対する批判が秀逸。
かなり共感する部分が多いのですが要するに、親孝行をしましょうと説きながらも、同時に子供を大切にしましょうとはけして言わないのがポイントなのだと思います。
つまりは、家族の間であっても、人間関係には「上下」があって然るべき。必ず親>子でなければならない、このような発想が背後にあるのではないか。
これは差別だと感じます。実に不平等で反近代的です。
「教育勅語」や「儒教」の影響かどうかはわかりませんが、昔の刑法においては、尊属殺(親殺し)と卑属殺(子殺し)では前者の方がずっと刑罰が重かったと聞きます。とんでもない話です。
そもそも親が「尊」で子が「卑」なんて、そんな差別色丸出しの表現がまかり通る時点である意味神経を疑います。
 
2人以上の人間が関係したら、必ずどちらかが上で、どちらかが下でなければならない。
このような儒教的信念の持ち主は、政治の世界には特に多いようにも感じます。
「期数」つまり何回選挙に通ったかが基準にされる場合が多いですが、特定の議員は異様に上下関係、例えば座る順番などにこだわります。
これは、問答無用で「上」であることを強要できれば、自らの普段の言動の的確さなど、実際の実力を磨く事に責任を持つことなく、無条件に敬われ発言力を高める環境を作ることができるからだと思います。
驚くべきことに、若手政治家の中にもこの「上下関係至上主義」を支持する人がいます。
これは、今のうちは下であることを受忍することが、将来(自分の実力や人望に責任を持つことなく)、無条件に「上」に上がる条件だという下心があるからではないかと感じることがあります。
いつか、誰かを這いつくばらせるために、今は這いつくばる。するとその若手政治家が先輩議員などに表面上見せている敬意は、実はウソなわけです。むなしいものだと感じます。
他者には敬意を払うべきですが、それは年齢や経験、性別などに関係なく人の言動には一定の価値があるからであって、その人が「上」だからではありません。
「誰が」言っているかではなく、その人が「何を」言っているか、そこに目が向けられる言論空間であってほしいと願います。
また、そうでなければ政治家が自分の言動を磨き、責任を持とうとする風潮も生まれません。上下関係に依存するとどうしても、その秩序に甘えてしまうでしょう。

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