駅立ち戦記その2

2ヶ月ほど駅立ちをしていると、中には声をかけて下さる方もいらっしゃいます。

大変ありがたく励みになると共に、人と話すことで、世の中の想いを知り、自己の見識を磨く良い機会となるわけです。

ですが、駅を利用しない方もたくさんいらっしゃるわけでして、接触しない、話さない人の声無き声といいますか、サイレントマジョリティをどう捉えたらよいのかとよく考えます。

どんなに会合、イベントへの参加を多くしても、接触を持てない人は必ず出てきます。

街じゅうの人と仲良くなるのは不可能ですし、また街じゅうの利害関係を両立させるのも不可能です。

また、特定の人との会話など(自分にとって印象の強い出来事)を、印象が強い故に特別視して、全体について誤判断してしまったりすることもあるかもしれません。

結局のところ、自分が信じる道を行き、信じる主張をしていくのしかないのかと思いますが、「自分の信じる道」と「独りよがり」との距離がどうもよくわかりません。

よくわからないなりに決断はしていかなければならないわけで、

一部の印象の強い出来事に引きずられて全体を判断していないかなど、常に自分が間違っている可能性を考慮に入れて、政策判断を考えることが重要なのかと思います。

すると、リスクヘッジを考慮し、何か変えるにしてもいきおい漸進的になります。

我ながら保守的だなあ。

ですが、大変革を求める→過去、他者の意見の全否定

これは「すべて私の意見通りにすべきである。なぜなら私のみが正しい人格者だから」となりかねず、とてもまともとは言えないのではないのでしょうか。

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